田園文庫 
denenbunko

田園文庫

 
 
主に古書画を取り扱う古物商のお店です。
店舗としての日常営業はいたしておりませんが、実際に商品を見てみたい

大分の美術作品に纏わる話がしたいなどご要望がございましたら
ご連絡いただければお店を開けてお待ちします。
 
鑑定・買い取りについて
書画鑑定・買い取りの他、器や仏像・銅像など古美術品全般の買い取りも受け付けています。
 
店 名 田園文庫
住 所 879-0153 大分県宇佐市上庄1054
電 話 0978-25-6744 
    080-3944-6885
メール ippodo@nifty.com
店 主 帆足 章二

 

大分県の文人画人作品を収集して五○年

豊後一聖三賢

 
私が、掛軸を収集する切っ掛けとなったのは、大分県に「豊後三賢」と云う語句が存在したからと思う。それはとても古くから云い慣らされてきたようで、大分県人の誰の口からも「豊後三賢」がたちまち出てくる。

豊後三賢は、三浦梅園と広瀬淡窓と帆足万里の事であるが、これは之で的確な呼称と思っている。
ただ今日になって、自分の収集物やその過程を振り返ってみて、それらの呼称は少し的を得ていない気もしてきた。

三浦梅園は、「一聖」とでも呼ぶべきで、ここ豊後の地で他に類の無い特別な思想と近代性を伴う物理思想を確立した異例の「聖人」としたい。兎にも角にも梅園は、別格と思う。本当は、大分県か或いは国がもっと顕彰をすべきと感じている。

それで然るべき豊後三賢は、広瀬淡窓と帆足万里と田能村竹田と思う。
凡そ同時期に出現した三者は、お互いにその存在を感じつつも、交わりに多くの手立を講じた訳では無かったが、豊後を取り巻く三角の縁(へり)の僻地から、各々の思想や信条を、慕う弟子達や知人に投げかけた。それだけで、自ずと三者に関りが生まれていた。


そもそも何ゆえにこの豊後の僻地に彼らが出現したのか。
その最初は、十七世期江戸時代を迎えて、家康が全国の大名をシャッフルした事に依る。
中央の大名とその一族が、極めて地の便の無い山奥に追いやられて仕舞う等と云う事は当たり前で、寧ろ幕府は、その事を勘案してその様な手立てを採ったと思う方が正しいと思う。
突然、中央の先端文化人が、大挙して豊後の山奥に遣って来たのだ。

それから参勤交代にも大きな理由がある。大名は、参勤交代で数か月諸街道を歩き、一年間の江戸詰めとなるが、この間の経験が大きい。美味しい産物も知ったが、話題になる学問・知識の事も大きかったと思われる。学問が無かったら、会話にならないのだ。

江戸時代以前、大友宗麟の豊後を含めた大国統治にも影響があった。大国であったからその残党を恐れて、豊後は、豊前の一部を含む一天領八藩に分割された。
この事は、経済面から、この地に大きな産業が興らない事も意味していた。例えば、大藩に於いては、福岡藩が博多織、佐賀藩は伊万里焼、肥後藩は金工細工等と云う産業が興っている。

しかし小藩ゆえ、とても良い事もあった。一藩の一学問所に集まって来る人数はせいぜい30~50名。拡声器などの器具が無いので、大藩であっても小藩であっても一教室あたりの人数は同じである。豊後・豊前では、藩校が一天領と八藩にわたり存在したから、各藩を合わせると、8倍9倍の子弟が学習の機会を得た事になる。

その様な経緯で、江戸も中期になるともう武術の必要は無く、「学問」の為の藩校の設立が急がれた。豊後の各藩も、その時代に藩校の設立を検討している。
この状況の中で、その年代(千七百年代)の後半、豊後三賢が出現したのである。当にタイムリーであった。

広瀬淡窓は、天領の地でありながら、私塾の構想を立てた。全ての経営を自分で構築し、入門者は「知人の紹介のみ」とした。他に拘りが無く、全ての人々に学問の門戸を開いた。

帆足万里は、師・蘭室の関りから梅園の業績を知っていた。更に江戸後期の時世柄、西洋文明を求めれば、それが叶う時代環境の中にいた。
万里の西庵塾では、漢文も教授するが、算学も医学も教授した。密かに新国家体制も考えてみた。

田能村竹田は、武士の身分を諦めた。周りの山河や自己の想いを「画と漢詩文」に託して作画を試みた。世は、未だ狩野派の時代である。
竹田の絵画は、清潔感と秀逸な漢詩文が相まって、それは予想を超えたところで、新しい芸術が生み出されることになった。当に「豊後南画」の誕生である。

その様な経過から、新・豊後一聖三賢と、その彼らの弟子達の活躍を知る事は、豊後に限らず、十九世紀から二十世紀初頭に亘る、全国の文化の実情を知る事に繋がるものと思っている。
 

豊後南画

豊後南画について

 

江戸時代の幕府は、学問には[朱子学]を採用しました。同じく絵画の方では「北宗画(ほくしゅうが)」系の[狩野派]と云う絵画形式を採用しました。全国の各藩もこぞってその絵画を学びました。

江戸時代も後期になると、[狩野派]の職業画家となって、先代の絵を擬(なぞら)えて、そのまた弟子に同じ事を継承するいわば職人的絵画に、画家も一般の人々も癖癖していました。

中国では数世紀前から、同じような理由で、学識者や政府の高官達が、「職人画ではない絵」を、[文人画(ぶんじんが)]と称して、形式に囚われない絵画を描いてきました。そのことを[北宗画]に対する[南宗画(なんしゅうが)]と呼びました。

江戸時代中期に、それらの絵画が日本に伝わると、池大雅や与謝蕪村、浦上玉堂らに依って、文人画様式の[南宗画]が描かれました。彼らの優れた[南宗画]は、これまでの[官の狩野派]に代わり、[民の文人画]として全国の全ての階級層の人々に受入れられました。

その様な時代の直後に現れた田能村竹田は、[画]は継承していくものではなく、「自分自身が見たものや感じたことを描くもの」として、[画]を描きそれに漢詩で[賛]を添えて、『詩画を一体とした南宗画』を提案しました。「絵画世界は自分で創作する」のです。俳句や和歌を詠む事と同じです。

竹田は日本の南宗画を倣うのではなく、その手本を中国古典としました。ただ中国古典に描かれた中国の奇抜な山塊や空気感は、日本には存在しません。ですから中国の[文人画]の世界を弁(わきま)えて、自分自身の表現を模索しました。それは、恰(あたか)も中国の文人画を日本の南宗画に「翻訳]したように思えます。

竹田の南宗画は、その弟子[高橋草坪(そうへい)][帆足杏雨(きょうう)][田能村直入(ちょくにゅう)]に引き継がれましたが、それを慕うそのまた弟子達にも引き継がれました。竹田に始まる豊後の地方に引継がれた南宗画の傾向と集団は、何時(いつ)しか[豊後南画(ぶんごなんが)]と呼ばれる様になりました。
 

大分県文人画人資料館

文人画人資料館とは

 
これまで収集してきた作品の展示場と図書室及び在庫保管庫として私の故郷に建てた建物です。
現在でも時折展示会を催しています。
 
2005年建設当時の案内状に名前の由来を記しています。
 
私の自宅に併設された大分県文人画人資料館と云う名称にした。

「大分県」や「資料館」は、たいそう大げさに聞こえ、その原稿を印刷に廻したり、初対面の方に口頭でお伝えする度に私自身がその呼称に気恥ずかしさを覚える。「大分県」は、大分県人会と同じことで大分県の事と云う意味であるから何も大分県立の意味合いを含ませた枠がった表示ではなく、また「資料館」は、図書館と同義でここに大分の文人画人に関わる資料及び関連図書を収集して保管していることをお知らせしているに過ぎないし、八百屋・瀬戸物屋等と云う業種の証しである。

 半年ほど前に得た物集高世著「神学百歌解/中巻」はその後、その後裔(こうえい)の研究者・奥田恵瑞先生に依って着実にその研究が進んでいる旨の報告を受けているが、その受け渡し時の経緯を国学院大学日本文化研究所報にご紹介いただいた。

その中で奥田先生に「・・・埋もれた学者の研究を志す人がでた時に、制約を出来るだけなくして、豊かな資料を提供できる資料館を・・・」と代弁していただいた。

私がめざした資料館なるものは、

①大分県先哲の書画・著作・書簡などの原本資料の収集。
②先哲を研究した出版物の収集。
③これからそれらを研究する人々に収集物の開示・閲覧に便宜を図る。

これらの骨子に基づけば、全ての制約から逃れるために運営は在野でなくてはならないことになり、そのような資料館の経営・存続は困難になると思われるから、我々古美術商でなくては成しようの無い施設であろうかと自負する。
 

田園文庫

名前の由来

 
Wikipediaに、号(ごう)とは、称号の略。本名とは別に使用する名称。と記されている。

であるから、両親他の命名である本名に比して、号は自分で自由に呼称を決めることが出来るから、号が本当に自分らしく自分の思想を表記している。それが本当の意味で、[名前]であるのかも知れない。

官途を選ばなかった福沢諭吉の号[三十一谷人]は、世俗を解体している。[世]が三十一で、[俗]は谷人である。又、小幡篤二郎の[箕田] は、そのまま慶応義塾の三田を捩ったものである。

自分も倣ってみた。若い時に飛行機に乗って京都や東京を往復して商いをしたので、孫悟空の筋斗雲にあやかって[キントウン]とした。また[金(キン)]と[運(ウン)]の意味も込めた。
 
更に。2015年に購入した宇佐の自宅は「田園文庫」と自称している。
購入目的で初めてこの地に来た折、ふと後ろを振り返ったところ、そこには広大な稲穂の海が広がっていた。
 
それにこじつけ、「田」は、田能村竹田の「田」、「園」は、三浦梅園の「園」と吹聴している。